
20年前に引っ越してきたのが瀬戸町の万富です。市町村合併で今では岡山市内ですが、岡山駅から山陽本線で20分くらいです。吉井川が近くを流れていて、その水源の関係でしょうか、キリンビールの工場があります。

20年前に引っ越してきたのが瀬戸町の万富です。市町村合併で今では岡山市内ですが、岡山駅から山陽本線で20分くらいです。吉井川が近くを流れていて、その水源の関係でしょうか、キリンビールの工場があります。

私の地元は,
1.県名に動物が入っています。
2.県名に入る動物が県のゆるキャラです。
3.男女共学なのに34年間女子生徒しかいなかった高校があります。

岡山市の南方に広がる江戸時代の干拓地の広範なエリアの中学校区で育ちました。児島湾には渡し船が往来し、児島湾締切堤防は長い間有料道路でした。新岡山港の埋め立て工事が少しずつ進むのを見ていました。

恩師がズバリおっしゃるには、私の性質は“よくばり”。
よくばり心性ゆえに、イチバンを決めるのがどうにも苦手。
そんな私にとって地元の基準は、3つです。
(1)最寄の駅に着くと、すこし気が緩むこと
(2)ふと、あの人とあそこであれを食べたなあと思い出すことがある場所
(3)味と状況が思い出せる誕生日ケーキを食べたことがある場所
もはや、この世のあちこちが地元なのですが、特にお世話になっている3つをご紹介します。

私の地元・・・。生まれたところ、育ったところ、そして今までの人生で一番長く過ごしたところ・・・。全部違うし、さてどこを紹介しようかと迷いつつ・・・。やっぱり、今の私につながる体験をたくさんさせてくれた場所にしようということで、紹介させていただきます。
私の父のふるさとは、日本で最も自殺の少ない町です。両親ともに働く、共働き家庭に育ったからだろうと思いますが、私は中学校に入学するまで(自分で自分のことを完全に出来るようになるとともに、勉強が忙しくなるまで)は、長期の休みに入ると、休みの大半の期間を、その父のふるさとで過ごしていました。同年代(といっても私が一番の年長でしたが)のいとこ数人と来る日も来る日も、暗くなるまで外で遊びまわっていました。その地はとてものどかな田舎で、木登り、山登り、山のなかを探検することはもちろん、夏は毎日、家の前に流れる川で泳いでいました。今から思うと、なかなかなサバイバルな体験をしていたように思います。夏のちょっと特別な日(きっと大人が時間に余裕があるときだったのでしょう)は、少し離れた大きな川まで連れていってもらって泳ぐこともあれば、海に連れていってもらえることもありました。川は流れがあるから海と比べるととても水が冷たいことも実体験として知りましたし、川で泳ぐとかなり根性を出して頑張って泳がないとかなり下流に流されてしまうことも実体験しましたし、海はいきなり深くなることもあるから慎重に泳いでいかないと大変なことになるということも学びました。川底にある石は川上から流されてきたためにぜーんぶ、角がなくて丸くて・・・。きれいな貝や石をいとこ達と一生懸命探したものでした。

自分が子育てをするようになった時には、我が子の友だちを水遊びに連れていくなんて、恐ろしくてできないと思いました。水の事故はとても怖いのです。流れのある川で子どもたちだけで毎日泳がせていたとは、昔はのどかだったのか、昔の子どもの運動能力が高くて信頼されていたのか、それともいざとなったら誰かが助け出す自信があったのか、いったいどういうことだったのだろうか。
のどかな田舎での多くの体験が今の私のプラスにつながっているかは分からないのですが、実体験の学びってすごく大事な学びなんじゃないかと今では強く思っています。

大学進学を機に地元を離れてから人生の半分近くは地元以外の土地で生活している。実家に帰るたびに地元の変わりように驚かされるばかりで,もはや紹介できるほど地元情報を持ち合わせていない。もちろん,様変わりした地元は私の研究テーマの“なつかしさ”も感じさせてくれない。時代に取り残されたという現実とコラムのタイトルのハードルの高さに直面し,現在進行形で心が折れていっている。
それでも私の地元は昔から変わらない個性をもちあわせている。例えば,地元には阪神タイガースの本拠地があるのだが,そこで市内の学校対抗の大運動会が開催されたり,年に一度,早朝の開門と同時にみんなが一斉にダッシュする神社があったり,牛女がいたりなどである。他にも,映画「火垂るの墓」で清太と節子になかなかのいじわるをする親戚のおばさんが住んでいたのも私の地元で,子どもの頃はそれがめちゃくちゃ嫌だった。
そんな中で私が地元に帰ってきたと最も実感するのは写真の山を見たときである。この山は標高300メートルぐらいの小さな山で,子どもでもすぐに登れるような山である。特別なエピソードがあるわけではないが,一目見るだけでなぜか無性に安心して,地元に帰ると見たくなる。時間の経過とともにより住みやすく,よりよい社会になっていくが,良くも悪くもいつまでも変わらないものも必要なのかもしれない。

かつて,「私の地元」と言いたくなるような地域に住んでいました。それは,私が仕事上の都合で一時期住んでいた地域です。今でこそ,首都圏まで電車で一時間足らずで着く地域ですが,私が住んでいた当時はまだ電車の駅もない状況でした。赴任前は,私の地元とは全く異なる状況だったため,この街で暮らすことについて不安があったことは否めません。
しかし,赴任後しばらくして,その印象は一変しました。見渡す限り電柱がなく広く美しい空に澄んだ空気。バスターミナルの駐輪場で温かい言葉をかけてくれる受付の方,英語に堪能なタイガースファンの友人,世界の最先端の研究に携わりながらもやさしく接している先生方。私にとって,今なお財産といえる大切な存在に巡り合うことができました。
今回,このコラムを執筆しながら,その地に足を運びゆっくりと当時を回想することを夢見ています。

今回紹介する片上鉄道は柵原鉱山(旧柵原町)で産出された硫化鉄鉱を片上港(備前市)まで運搬する為に1931年(昭和6年)に柵原‐片上間33.8㎞が開通したのですが、1987年(昭和62年)には鉱石輸送はトラックに移行し、1991年(平成3年)3月に柵原鉱山が閉山となると同年6月末をもって廃線となりました。―その間、私は小学生時には医療機関通院の為に、中学時には書店のある町まで出かける際に、高校・浪人時代は毎日の通学に、乗車してきました。

白い砂浜、青い空、青い海。沖縄ではありません。グアムでもありません。ハワイでもありません。ここは広島県呉市。(この写真は蒲刈島の砂浜です)
私が生まれたのは香川県の高松市であったそうです。でも,父の仕事の都合でまもなく倉敷市に移り住んだようで、実際に育ったのは倉敷市という感じです。
両親の実家は高松であったので、子どもの頃はお盆と年末年始はフェリーで海を渡り帰省していました。よって香川県も懐かしく、また気持ちがなんとなく落ち着く場所でもあります。今回は、岡山県の玉野市から香川県へと瀬戸内海まわりを簡単に写真でちらっとお見せします。
まずは、玉野市の宇野港です。昔はここからよく宇高国道フェリーに乗船していました。今はもう運行されていませんが、フェリー売店の幕の内弁当やおにぎりが楽しみだったことを覚えています。車両甲板の排気ガスのにおいも好きでした。

続いて、香川県の屋島からサンポート高松方面に向けた写真です。2010年末頃の様子です。

こちらは五色台から瀬戸大橋を眺めています。拙い撮影も夕方はわりと絵になります。

続いてこちらは観音寺の銭形砂絵です。時代劇のオープニングでお馴染みかもです。眺めるとお金がたまる?そうです。観音寺出身の学生(卒業生)に教えてもらいました。香川に行くとわりと立ち寄ります。お金目当てではありません。

こちらは紫雲出山から瀬戸大橋方面です。良い眺めです。真ん中の上の方に月も写っていますが見えますか。

最後は瀬戸大橋の下、与島から香川方面を向いた眺めと沈む夕日です。瀬戸大橋が開通した頃はかなりにぎわっていましたが、最近は落ち着いているような気がします。

以上、岡山・香川の一部紹介でした。