教職員コラム お題「学生時代の思い出」 福岡欣治

 コラムのお題が決まったあと、すぐに“このこと”が頭に浮かびました。その後、先生方が綴られるコラムを拝見して、「こんな話題もあるのか・・・」と驚き感嘆し、自分の発想力のなさ、経験の幅の狭さを改めて思い知りましたが・・・。
 開き直りと諦めの気持ちだけですが、最初に頭に浮かんだことを書きます。もちろん、別に面白い話しでもなければ、共感を期待できるような話しでもありません。ただの独り言です。

 

 高校を卒業するとき、お世話になった部活の先生に、挨拶に伺いました。「同好会もあるからな」と言われました。そうだよな、そう言われても仕方ないよな・・・と思いつつ、でも、そこには気持ちが向かいませんでした。「やり直してみたい」という思いだけでした。
 入学の数日前、ふと思い立って、自転車に乗って走りました。地図を眺めていて、そうか、と思ったのです。京都から南へ、奈良県に続く数十キロの自転車道の起点が自宅のすぐ近くにあり、そこから、通うことになるキャンパスの、地図上では「脇」を通っていました。往復してみて、足ががくがくしました。でも、無理ってほどじゃないな、と思いました。
 入学式の日かその次の日だったか、、大学の部活の案内スペースに足を運び、ともかく、また、同じことを始めました。私以外は、その大学の系列高校の部活で主将をしていた人を除けば、ほぼ全員が推薦で来ている人ばかりのところでしたが(もちろんそれはよく知っていました)。「遠慮」という言葉の意味を理解していたなら、きっと遠慮していたでしょう。私の知識など、いつもそういうものでしかないのです。

 

 記憶が曖昧になっています。でも、それからしばらく(数日程度)の頃には違いありません。4月の中旬になるかならないか。授業が始まってすぐか、あるいはガイダンス期間の終わり頃か。その日も数時間、毎日ある練習に参加させてもらい、そして、自転車で帰路につきました。もう暗くなり、しかも、その日は雨が降り始めていました。用意していた上下の雨合羽を来て、くたくたになってペダルをこぎました。
 私は小さい頃、身体がそれほど丈夫ではなくて、時々、学校を休んでいました。とくに、ちょっとしたことで鼻血を出し、それが止まらないために遅刻する、といったことが何度もありました。大きくなってからは回数が少なくなりましたが、いったん鼻血が出だすと、仰向けになっても止まらなくて、綿やティッシュの詰め物を真っ赤にして、そこから血があふれてしまうようなこともよくありました。

 

 その日、まだ全然暑い時期ではありませんでしたが、練習で疲れた身体がもう言うことをきかなくて、雨合羽で蒸せて、鼻血がにじんで・・・大学を出て数キロのところにあった、あるレストラン(※長距離トラックの運転手さんが立ち寄るのに向いているような感じのお店)の敷地に入り込みました。雨をしのげそうな小屋根のある自転車置き場を見つけ、そこに自転車を止め、ぐったりして座り込み、建物の壁にもたれかかりました。

 数分もたっていない頃でしょうか。お店の人が出てきて、雨に濡れて、鼻血まみれになっているこの見知らぬ輩を、建物の中に入れてくれました。どんなやりとりをしたのか覚えていません。でも、見るに見かねてのことでしょう。それほど広くない、でもこざっぱりした部屋に案内してもらい、そこで、しばらく仰向けになって休ませてもらいました。自分がどんな気持ちだったのか、あまりよく覚えていません。でも、確かにそうやって、助けてもらいました。お礼のことばくらいは言えたのでしょうか。ジュースを飲ませてもらったかもしれません。ただただ、「助けてもらった」という思い出が、今も心に浮かんできます。
 中学生だったか、中学を出てすぐくらいだったに違いありません。私よりも年下の、短く切りそろえた髪の毛が少し伸びた、丸顔の男の子が、大学生になったばかりの、大学生らしくもない、鼻血がようやく止まりかけた不格好な私に話しかけてくれました。きっとこんな雰囲気だったはず、というおぼろげなイメージが、私の頭から離れません。その子の部屋だったのかもしれません。お店の手伝いをするための格好をしていた気がします。おだやかで、優しい表情で話しかけてくれました。私は、自分が大学生になったばかりで、部活をしていて・・・といったことをきっと話したと思います。どんな気持ちで聞いてくれたのかはわかりません。遠い世界の話しだったはずです。でも、その短い時間を、男の子は一緒に過ごしてくれました。
 大学生になってすぐに買ったものだったと思います。たまたま持っていた、ちょっとだけよさげに見える(といっても、数百円程度の)使いかけのシャーペンを、「こんなものしかないけど・・・」と(いうようなことを、きっと)言って、その男の子に渡しました。後から考えれば、そんなものをもらったところで、使う機会がなかったのではないかと思いますが、受け取ってくれました。
 どれくらい休ませてもらったのかは、はっきり覚えていません。そんなに長い時間ではなかったと思いますが、でも、鼻血が止まり、身体が落ち着いて、お店を出ました。雨はやんでいなかったと思いますし、そこからまだ距離があったのですが、ともかく、家に帰り着きました。帰路の出来事、助けてもらったことを、両親に話しました。少し経ってから、両親がそのお店に、お礼を兼ねて二人で食事をしに行ってくれたと聞きました。私はその後も7ヶ月ほどは毎日続けて、そして卒業までで言えば通算1年ほど、自転車で往復をしました。その間はさすがに、途中で倒れて介抱されるようなことはありませんでした。傍目から見れば、バカなことをしているとしか言いようがなかったに違いありませんが。

  

 私は本当に失礼な輩です。その後はお店に行くことも、男の子に会うこともなく、今に至っています。言い訳以外の何物でもありませんが、こんなにも不格好な自分が“もうちょっと、そうじゃない自分”になれたら、そのときはこっそり、お礼を言いに行きたいと思っていました。そんな時は来なかった。それだけのことです。

 やがて就職のために京都を離れた後、気になって何度か地図を眺めました。でも、そのお店を見つけることはできません。そもそも、車でないと行けないような(※本数の少ないバスは通っていたと思いますが)、自宅から20数キロも離れた国道沿い、あのお店の人に、そして、あのときの男の子に、そうやって、私は助けてもらいました。大学に入ったばかりの、30数年前の夜に。それは、ずっと忘れることのできない、私の思い出の1つです。

 

追伸
 不思議なものです。5年前の夏、順番が回ってきたときの教職員コラムのお題は「学生時代に大切にしたこと」でした。相も変わらず“似たようなこと”を書いている自分に、一人、乾いた笑いがこみ上げてきます。そう、そんなことは、誰にとっても、もうどうだっていいことなのです。

■5年前のコラムの最後
>リオでは団体、個人ともメダルに届くか届かないか・・・厳しいかもしれませんが、みんなで応援しましょう!

 今回も、皆さん、ぜひ画面越しに応援してください!

 

福岡欣治