教職員コラム お題「私の仕事」 福岡欣治

 学科オリジナルHPの主な読者は、どんな人でしょう。学科所属の教職員や学生のみなさん・・・だけではなく、本学臨床心理学科に関心をもってくださる学外の方、とりわけ、高校生のみなさんを思い浮かべながら、今回のコラムを書きます。

 

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 私が初めて「仕事」について意識したのは、高校2年生の半ばから3年生になる頃です。なお、ここでいう「仕事」とは、短絡的かもしれませんが(別の見方もあるだろうという意味で)、「職業」(=収入を得て生計を維持する活動)のことです。

 

 それ以前から、たとえば“大人になったら何になりたいか?”的な問いは投げかけられていたと思いますが、それへの答えは“夢物語”以上のものではありませんでした。それが、「進路」を意識し(させられ)、高校を卒業して大学に行くという選択肢を考えたとき、自分がさらにそのあとでどうなっていくのか、ということに対して思いが及びました。

 

 そこでまず考えたことは、「大学で勉強することは、直接、そのあとの仕事につながるものにしよう」ということでした。
 これは、もしかしたら、あのころ(=1980年代のまん中あたり)「大学は、モラトリアムの時期」というような、大学で勉強することと卒業してからやることは別、あるいはまた、大学ではそんなに勉強しなくてもいい、といったような風潮があるような気がしていて、それへの反発があったのかもしれません。

 

 もっとも、私の父はごくふつうのサラリーマン(製造業の会社員)だったこともあり、医療福祉系の仕事は自分にとって身近ではありませんでした(※私が高校生だった1980年代の半ば、「医療福祉」という言葉はまだ一般的ではなかったと思いますが・・・日本初の医療福祉大学として本学が開学したのは1991年のことです;ちなみに「臨床心理士」の制度ができたのは1988年)。一方で、父は両親が“(田舎町の)大衆食堂”(お昼は丼物やうどんなどを出し、夜は一杯飲み屋)をやっていたという話しをよくしていましたから、身近だったのは“会社勤め”か“商売人”でした。

 

 ところが、そのどちらも、自分が「できる」「したい」とは思えず・・・。

 

 やがて本当に進学先を決めなくてはいけないという段になったとき、哲学と心理学とどちらにするか迷って(注:哲学が何なのか、心理学が何なのか、本当はよくわかっておらず、後になって振り返ると、単に自分のイメージや思い込みだけで比べていたのですが)、大学では心理学をやろう、ということに決めました。
 それは、何よりもまず自分や他人の「心」について少しでも理解したいという気持ちでしたが、後出しじゃんけん的に付け加えるとしたら、そのような理解を深めるための活動[=研究]をしたり、他の人が理解を深めるための手助け[=教育]ができたらいいな、という気持ちだったように思います(ちなみに、私にとって当時の「哲学」のイメージは、たとえば“人間はどうあるべきか”のような、“答えの出ない問いを考え続けるもの”という感じでした。それをどう「仕事」とすればよいのかわからず、もしも自分がそれをするなら「何かをしながら」考え続けるのがよいのではないか・・・と思っていました。もちろん、それは全然「正しい考え」ではないと思います)。

 
 
 その後、大学に入ってから「心理学って、こういうものだったのか・・・」と気づき(よくある話しなのですが、入学前のイメージとは違っていました)、それでも、学びの中に心惹かれるものを見つけることができて、その先へと進んでいきました(※途中、ふらふらとさ迷って躓いたり転んだり、周りの人に散々迷惑をかけたりしながら、ですが)。そして、学部4年間のあと、大学院修士2年+博士3年、行き場がなくてさらに2年間籍をおいた後、さらに何人もの方にたくさんたくさん助けていただいて、20代がもうすぐ終わるという頃、やっと、今につながる「心理学の教員」としての職に就くことができました。

 

 それから、20年余りが過ぎています。

 

 実のところ、私は本当は心理学に向いていなかったかもしれない、と思うこともよくあるのですが、それでも「自分で選んだことだから」というのは、自分自身を納得させ、苦しいときにも踏みとどまらせる力になっている気がします(※一つのことを続ければ続けるほど、他のことができなくなっていく、という面もあるのですが)。

 

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追伸その1
 実は、私はそろそろ「潮時」ではないか、と考えることも増えてきました。当時「向いているかいないか」で決めるという発想自体がなく(=自分がそれに向いていると思ったからでも、向いていると誰かに言ってもらったからでもなく)、ただ「それをしたい」という思いから、心理学を選びました。しかし、それは基本的に自分本位です。もしもそれが他の人にとって意味をもつものでない(意味あるものを提供できない)としたら、そのときは、(対価として収入を得るという意味での「仕事」からは)身を退くべきではないかと思っています。
 顧みれば、私は本学に「心理学の教員」であることを求められて来た訳ではなく(別の学科の所属教員として着任しました)、私を本学に呼んでくださった方も、年月を経て、今は退かれています。また、私が本学の中で臨床心理学科への移籍を指示された時の前提となった状況も、実は早くに解消されています。そのような様々な条件を乗り越えるだけの熱意をもって「仕事」に向き合い、一定以上のクオリティをもって、意味あるものを提供し続けられるのか、厳しく(寂しく?)自問する毎日です。
 もっとも、その答えが最終的に「否」であっても、それはそれでよいのではないかと思っています。なぜなら、それによって「意味のある仕事」が実現できる新しい人を、ここにお迎えできることになるからです。そうやって、後の人に託すことを通して、これから本学科にお迎えする人たちのためによりよい環境を実現するということも、このコラムを読んでくださっているみなさんのために、「意味あること」の一部になるのかな、と思っています。

 

追伸その2
 私は高校生の頃、自分は商売人は向いていない、たとえばモノを作って売ったり、ヨソから仕入れたモノを売って利益を上げるような仕事は、自分には上手くできないと思っていました(会社勤めのような仕事も、自分が意慾を持って取り組めるのかどうか、疑問でした)。実際、そのような仕事を仕事としてしたことは(アルバイトを含めて、ほとんど)ありません。
 しかし、実は大学院にいた期間の後半から「それは違っていたのではないか?」と思うようになり、教員として働くようになってからは、はっきり「違う」と思うようになりました。別に才覚があることに気づいたとか、教員を辞めて金儲けをしたくなったとか、そういうことではありません。しかし、高校生の頃にはどうにもやりたいともできるとも思えなかった仕事に、実は誰もが感じられる意義があって、自分も含めてどこかに魅力を見つけることができる可能性がある、と思うようになりました(そしてそれは、教員として卒業生を送り出すときの、私の基本的なスタンスの一部になっています)。
 ちょっとうまく言えないのですが、誰かに何かを伝える仕事(教員も研究者も、そういう面があると思います)をするとき、決定的に重要なのは、伝えられた側(伝えられるモノを受けとった側)がそれを受けとってどうするか、どう生かせるかだと思います(もちろん「何を伝えたいか」が重要ですが、それと並び立つように)。
 たっぷりと自虐を込めて言えば、自分が伝えることのできる内容が、「完璧」で「最も優れている」などと思える時は皆無です。常に、何かはっきりと、不十分なところがある。しかし、今、その情報を持っていない人、あるいは、その情報を手がかりの一つにして自分自身の考えを深めようとする人にとっては、その不十分さがあったとしても、意味をもつときがある気がします。その部分が、何かを「売る」ときの売り手と、それを「買う」人との関係と、なんとなく、似ているような気がするのです。
 勉強や研究やあるいは進路のことなどについて在学生に助言するとき、あるいは、模擬授業や進路ガイダンスなどで高校生のみなさんに説明をするとき、そういうことを意識している自分に気づく(そして“実は、高校生の頃には考えてもみなかったようなことを、今、やっているのかな!?”と思う)ときがあります。

 

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 あれ、追伸の方が長い?!・・・そもそも、このコラム、何を書いてるんだっけ・・・。

 

【結論】私の「仕事」に対する高校生の頃の考えは、「まったく、あてにならないモノ」だった。

福岡欣治