教職員コラム お題「今,熱中していること」福岡 欣治

 2015年8月にリニューアルされた本学科オリジナルHP、教職員コラムはその年の10月から始まり、今回で36個目の記事です。

 旧テーマ「私が学生時代に大切にしたこと」の時にもちらっと書きましたが、私(福岡)は記事を書いてくださる先生方に対して、“もうすぐ原稿の提出期限ですよ”とお知らせする係をお引き受けしています。

 しかし、こともあろうに今回、私は自らその期限に遅れてしまいました。

 ちょうど8/6開催の今年度第3回のオープンキャンパスを控えていて、どぉーでもいいような記事が載ってしまうと時期的にマイナスだろうと判断した・・・というのは、苦しい言い訳です。

 他の先生方、たとえば車や野球への深い関心と愛情をお持ちの佐々木先生・高尾先生や、数多くの「塔」の写真をご紹介くださった澤原先生、ペタンクという興味深いスポーツを紹介してくださった谷原先生のような、何かに対する造詣もなく、かといって、自転車に乗って流れる汗と風景を語る先に読者を魅惑(幻惑?)の世界へと導かれる瀧川先生のような趣深いユーモアも、恥ずかしながら、私はまったく持ち合わせていません。

 「熱中」(=他のことを忘れて、一つのことに心を注ぐこと[大辞林 第三版];物事に心を集中すること、夢中になってすること、また、熱烈に思うこと[広辞苑 第六版])なんて、今から30数年前の、わずか2,3年の間(短いなぁ・・・)、もしかしたらそれに近いかもしれないことを経験しただけで(#)、その後は今に至るまで、そしてきっとこの先もずっと経験することがないだろうと思う、それこそ、空想の世界にしか見つけられそうにない心の状態です。昨年12月、「今、熱中していること」を書く、という教職員コラムの新しいテーマが決まりました。即座に「・・・無い。」という答えが頭の中に浮かび、それを何とか打ち消そうと、あれこれ思い巡らせてきました。しかし、何人もの先生方が綴られてきたこのテーマでの文章は、私にとっては感嘆と尊敬の気持ちをもつことしかできない、遠くに仰ぎ見る星のようなものでした。同じようにはどうあがいても書けそうにない。決して、忘れていたわけではないのです。でも、果たしてどうしたものか・・・。

 いや、やっぱりただの言い訳です。すみません。

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 熱中の“熱”は、熱烈の“熱”でもあります。何か、感情の高ぶりを表す表現なのでしょう。その形容はあたっていないとは思うものの、私がいつも「気にかかっていること」「気がつくと、時間を費やしていると思うこと」はあります。まぁ、教員としてはおよそあたりまえのようなことなのですが・・・・・・それは「学生(のみなさん)」のことです。およそネタに事欠いて実につまらんことを、とお叱りの大合唱が聞こえてきそうですが(いや、実際には呆れ果てた沈黙か)、仕方がない。他に何も思い浮かばないからです。

 本学の別の学科からご縁をいただいて臨床心理学科に移り3年目を迎えていますが、カリキュラムの関係上(受け持つ授業が少なく)、あまり学生のみなさんと接する機会がありませんでした。が、今年は春からオープンキャンパス(6・7・8・10・3月開催)の主担当をすることになったので、学生サポーターを募集させてもらい、30数名の名簿を見ながら、あれこれ連絡をとったりして2か月ほどが経っています。私にとっては、ほぼ9年ぶりのことです。岡山に来る前に勤めていた静岡県の学校で、同じようなことをしていたからです。

 実際には何をやっているでもない、ただ、みんなに連絡をしてオープンキャンパスに来てもらえるか確認し、あとは経験豊富な上級生のおかげで、当日、高校生やそのご家族などが来られるのに対応してくれるのを見守るだけです。上手に案内や説明をこなしているのを見るとうれしくなるし、ちょっとあぶなっかしいかなと思うとつい声をかけてみたり、おせっかいなことをして。どうにか今年3回目のオープンキャンパスが8/6に終わったばかりなので、次の機会にも来てくれるかどうか、勝手に一人で気をもんでいます(きっとこういう気むずかしくてややこしい教員は好かれないだろうと我に返るたび気に病んだりしていますが、いつも、後の祭りです)。

  学生と接していると、人間ってすごいな、個性ってすごいな、とよく思います。みんなそれぞれ違っていることが、しばらく眺めたり話したりしていると、少しずつですが感じられるようになってくる気がします。こんなことも言ってみれば当たり前なんだろうけれど、好きなことも、嫌いなことも、得意なことも、不得手なことも、みんな違っています。時にはきっととても大変なんだろうな、辛いだろうなと思うようなことを経験してきている人もいて、そういう部分をほんの少しですが垣間見せてくれたとき、この人は一見こんなふうだけど、本当はすごいんだな、そういう経験をしてきた●●さんには、自分なんてとてもかなわないな、と思ったりすることもあります。何だろう、あまり躊躇もなく「憧れて」しまうというのか・・・・・・(※勝手に憧れられる学生もきっといい迷惑に違いないと思うので、安易に表に出てしまわないように、間違っても教員としての対応に差が出たりしないように注意はしています)。もちろん、特別な経験をしてきた学生だからというのでなくても、何か、その人のために自分にできることがあればうれしいなと思ったりします。

 実際には、教員と学生という枠組みの中ですべきこと・できることは僅かですし、学生も自分のごくごく一部分しか教員に対しては見せていないはずで、それであれこれ考えてもおよそ大したことにはならないのですが。

 話しが少しずれてしまいますが、私は、前にいた学校で、ちょっとだけ変わった経験をしています。初めて勤めた大学のキャンパスは着任後ほどなくして閉鎖されることが決まっており、最初はすべての学年が揃っていたけれど、しばらくすると上級生だけになり、やがて最後の1学年の卒業式を迎えました。先生方も次々と引っ越しをされて、人影の薄くなっていく校舎に、3月の最後まで残っていました。名残を惜しむ2,3の卒業生たちと談笑しつつ、桜の花びらが散るキャンパスにさよならをしました。他方、その閉鎖されるキャンパスにあった学部の定員を引き継いで(まあまあ近くの、ただし別の場所に)造られた新しい大学は、真新しい校舎に1年生と教員だけ、という状態が始まっていました。1年間は古い大学と新しい大学の兼務で行ったり来たりしてもいました。そして、新しい大学はそれから1学年ずつ学生が増えていって、やがてすべての学年が揃い、最初の卒業生が巣立っていきました。「最後の」学年を教える経験と「最初の」学年を教える経験とが時期的に重なっていて、その前後を含む数年間、それぞれの学校の学生たちと、とても近い距離感で過ごしました。当時は私がまだそれなりに若く(30歳を少し過ぎたくらいでした)、両方の学校で自分が一番下の(年齢も、職位も)教員でしたから、学生にとっても相対的に身近だったのでしょう。記憶の中にも、その頃のことはよく残っています。

 もちろんそれからどんどん歳を取り、学生からみた自分自身も、遠い存在になっていっただろうと思います。にもかかわらず、なるべくなら学生の近くでできる仕事がいいな、とわがままなことを考えてしまったせいで、「学生委員」「学生生活委員」という呼び名をお借りして、もう10数年になろうとしています(他のことをしていないわけではないですが・・・)。くたびれた得体の知れない世捨て人(!?)の如き中年男ではなく、臨床心理学の一番面白い部分を教えてくれるかっこいいF先生(私の次にコラムを書いてくれます!)に来年こそはこの仕事をおまかせして身を退くことを思い描いてはいるのですが、今はまだもう少し、学生(のみなさん)のことを考えていたいな・・・・・・という思いもあります。

 いやまぁ、なるべく心配はしないでください。だからといって、何かをするというわけではありません。邪魔にならない程度に遠くから見守っていようと思うだけなので。ただ、もしも学生(のみなさん)が何かたずねたり伝えたりしたいと思うことがあったとき、その声が届くくらいの近さにはいたいと思います。

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 もはやコラムの表題が何だったのかわからないくらいにおかしな内容になってしまいましたが、趣旨に合わないつまらない文章とはいえここまで書くことができたのは、今いる学生のみなさん、またかつて身近にいてくれた学生のみなさんのおかげです。改めて、どうもありがとう。古い記念の品をがさごそ探したりして、昔を思い出しながら、そして、今の自分を振り返りながらの文章になりました。とくに今の学生のみなさんが読んだとしたら、なんなんだこりゃ、と不快に思ったりもするかもしれません。でも、わからずに近づいて後でイヤになるよりは、最初から適当な距離をおくという対処もできるという意味で、こういう一方的な自分語りの文章も、まったくの無意味というわけではないでしょう。(^_^;

 

 (#)

 日本では“Tリーグ”なるものが近々スタートするという報道がありましたが、海外では、マレーシアで開催されている「T2」とか、インドの「UTT」など、新たなイベントやプロリーグが始まっているようです。最近は本当にいろいろな情報があって、楽しいです。昔々お世話になっていた高校も、昨年はとうとう全国大会の(団体戦の)連続出場記録が途絶えてしまったのですが、今年はまた代表になり、“古豪が復活の光を見せてくれた”などと専門誌の記事に書かれていたりして。

でも・・・今の私が「熱中」しているかというと、それは、全然違うんですよね・・・。

福岡 欣治