教職員コラム 「学生時代の思い出ー水野祥太郎学長のこと」 澤原 光彦

 私が川崎医科大学に入学した1978年は水野祥太郎先生が医大の学長を務められた最後の年度に当り、我々医大9期生は水野学長が医学概論を講じられた最後の学年となります。水野先生は1907(明治40)年のお生まれで、大阪市立大学及び大阪大学整形外科教授を経て、1970年川崎医科大学教授、1972年川崎医科大学学長(二代)に就任されました。水野先生は戦時中から傷痍軍人のリハビリテーション(という医学用語はまだ日本にありませんでしたが)を開拓されておられ、日本リハビリテーション医学会設立会合(東京・学士会館:1963年9月)と同学会第1回大会(大阪:1964年7月)の開催時には共に会長を務められました。

 水野先生は極めて浩瀚深甚たる教養と多大な情熱の持ち主で、講義内容は多様で興趣に富み、何を質問されるか予想がつかないという恐ろしいものでした(一度、講義中唐突に「シャーロック・ホームズはどこに住んでいたかね?」と問われた私は正しく答えることが出来ました。これは私の数少ない自慢の一つなのです)。

 水野先生は20代前半の最初の著書「山野スキー術教本(黒百合社、1931)」以降、多くの論文・書籍を世に問うて来られた訳ですが、最晩年に「ヒトの足-この謎にみちたもの(創元社、1984)」を残されました。これは、水野先生の生涯に渡っての関心領域「ヒトの足」について執筆された著作であり、その目次を見ただけでも「第Ⅰ部.足の進化論-ケニア原人への進化」「第Ⅱ部.偏平足」「第Ⅲ部.足アーチ」「第Ⅳ部.足の痛み」「第Ⅴ部.足と履物」との極めて広い視野からのアプローチがうかがえます。

 中でも「第Ⅰ部.足の進化論-ケニア原人への進化.第五章.ケニア原人の足」の章では、1959年にオルドワイ渓谷(タンザニア)で発掘されたジンジャントロープス(澤原註:現在では「パラントロプス・ポイセイ」或いは「アウストラロピテクス・ポイセイ」と呼称される様です)の足骨格化石(『この足化石は指をのぞいて12個の足根骨が全部そろっている点で大変貴重なものであり、その後、ずいぶんと原人の化石が発見されていったのに、これに匹敵するものは、ついに、まだ現れてはいない。同書p64』)を実見するために、発掘者リーキ―博士の子息リチャード・リーキー氏に連絡を取り、当該の化石の組み立て標本を論文発表(1964年)されたデイ教授をロンドンの医科大学に訪ね(1974年)、更にナイロビに飛んでリチャード・リーキー氏の元で直接に12個の足根骨化石を詳細に観察した経過が述べられています。その結果、当初その骨格の小ささから12-13歳の小児の骨として発表されたのに対し、水野先生は整形外科医として足の外寄りに変形性関節症と言える変化を確認し、通常それはヒトにおいては40歳以上で生じる変化である事を踏まえ、更に骨格の大きさから身長は120-130㎝程度の筈で体重が軽いにも関わらずこのような変化が生じている事から、このケニア原人の足の骨格構造が木の幹を抱えての木登りには向いているが足のアーチ構造は成人のヒトに比べて低く、安定的に長時間立つ事や平地を歩く事自体が大きな負担となる「やわらかな足」であったのであろう、と推定しておられます。(ここで、デイ教授の組み立て標本の提案はヒトの足に意識的に近づけすぎている懸念があるとの指摘も述べられています)

 この一連の考察は、「第Ⅰ部足の進化論」を通して語られている事(恐竜の脚の形態、姿勢に関する考察なども語られます)の必然的な結果であると共に、その後の「偏平足」や「足アーチ」で述べられる、足骨格構造の力学的性質についての深い知見と理解に基づいたものなのです。

 全編この様な知的刺激に満ちた本なので、本書は1984年の水野先生の逝去後に、同年の第38回毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞されておりますが、今回36年以上の時間の隔たりを越えて2020年10月30日付で「創元アーカイブス」として新装版が復刊されたのです。これは極めて異例な事で、改めて大きな驚きと喜びを感じたのでした。

 水野先生の講義の迫力や休暇に際して学生に出された課題内容など、まだまだ述べるべき事は多いのですが、今回は復刊されたご著書の魅力(の一端)についてなんとしても紹介したかったのです。(2021年4月22日記す)

澤原 光彦