教職員コラム お題「私の仕事」竹内いつ子

昨日の昼間に、ふと建物から外に出ると、

においも音も光線も真夏で、熱気にたじろぎながら、ちょっとしみじみしてしまいました。

 

夏というのは、色々なことを思い出す刺激に満ちているようです。

 

このたび、「私の仕事」というブログの宿題をいただいて、

まるであんたは一体「人生をいかに生きているのか」を問われているように感じ、

昨今の日々をふりかえり、見苦しい言動の数々を想起し、煩悶としつつも、一向に宿題が終わらず、思えば小学校4年生頃から、夏休みの宿題がギリギリになったことを思い出しました。

 

あの夏、一体なにがあったのか。

さすが臨床心理学科、人生の機微にふれる、絶妙なお題展開です。

 

小学校に入った頃の私は、夏休みの宿題は7月のうちに終えて、+αで自由研究や読書感想文にも手を出してしまう、割と優等生だったと思います。(ただ、ランドセルは学校に忘れて帰ってしまったことがあったような。)

 

さて、問題の小学校4年生。家の近くのお寺にちょくちょく行くようになりました。

お寺では、お話を聞いたり、おしゃべりしたり、宿題を教えてもらったり、お菓子をもらったり、パンをもらったり、お掃除をしたり、仏さまに手を合わせたりしながら、

人にはいろいろな苦しみや後悔があって、それらがなぜ起こるのかを知りたいと思う気持ちがあること、人が人に傷ついたり、救われたりすることを教えていただいたように思います。

 

そして、仏さまは尊いのだけれども、卑しく生きている人間のなかにも“仏性”というものがあるという考えを知りました。

そこで私は、まず読経にハマりました。そして“修行”にハマったのです。

 

 

これは当時の私の大雑把な理解ですが、修行とは、己の卑しさや至らなさ、罪深さを知り、悔い改めつつ、己のなかの仏性を見出し、いかすことであり、周りの人びとの仏性を尊びながら生きるということらしいです。「なるほどー」と思った私は、人も頑張れば仏さまになれるんだーと考え(やや飛躍ですが)、お経を覚えるほど唱え、お百度参りなどにも積極的に参加し、一時は、将来はお坊さんになりたいと思っていました。これは、生来のファンタジー嗜好が仏さまという“異界”あるいは“特別な存在”に対する憧憬と魅力を感じさせたのかもしれないし、真夏の畳に汗が染みるまでお経をあげ続ける小学生が大人に褒められて有頂天になっていたことに動機づけられたのかもしれないし、何かに熱中することの快感に味をしめてしまったのかもしれないのですが、私のなかの鮮明な体験の1つとなりました。

 

時間の有限性をさておき、修行に夢中になったことと、宿題が終わらなくなったこととの因果関係は定かではありませんが、いわゆる“熱中体験”にともない、“枠組み”を守れなくなることが生じてきたということは、自らの“パッション”と“現実”を調整する機能が従来のものでは賄いきれなくなったのだという見解を持っています。

 

“パッション”と“現実”の調整。これは、まったくもって小学校4年生頃から続く私の課題です。つまり、己の情熱の衝動とそれにともなう貪欲さを見つめながら、自分のなかの善い部分で人とつながり、現実を生きていくために努力することが私の修行であり、人生の過程とも言えます。

 

今では、お寺からは足が遠のいてしまいましたが、近所の神社にときどき行きます。

ふと守られているような心地や日頃の所業を神さまが見ているというドキッとした感覚になることがあります。そして、不思議なことにそういう風にかかわってくださる方にご縁があったりもするのです。

竹内 いつ子