教職員コラム お題「私の宝物」福岡 欣治

 

 教員の福岡です。教職員コラム、リニューアル後の本学科HPでは3つめのテーマです。毎回無駄に長い記事を書いているので、今回は手短に・・・。

 「私の宝物」というお題が決まったとき、例によって“困ったなぁ”とは思ったものの、このテーマならこう書くしかないだろうな、という感じで、わりとすぐにアイデアは固まりました。

 

 コラムの1つ前の順番は哲学の林先生ですが、ちょうど冒頭でこのように書いてくださっています。

 

>「宝物」というのは、何か「思い出の品」みたいなものを連想させますが・・・

 

 私にとって「思い出の品」はあるのですが、実は、それを自分自身で「宝物(たからもの)」だと考えたことがありません。なぜだかわかりませんが・・・そもそも、あまり長く1つのモノを使った記憶がないせいかもしれません(3人きょうだいの末っ子だった私は、小学校入学時のランドセルさえも6年上の兄のお下がりで、ちょうど1年で使えなくなってしまいました)。それはさておき、昔使っていた物だとか、大切な方から頂いた物だとか、いくつかあるにはあるのですが、たいていは、どこかにしまいこんでしまっています。ふだんそれを眺めてどうこうということもなく、目に見えるところにある場合には、それは単に「使っている物の一つ」であったりします。

 

 下の左側の写真は、今から約40年前のものです。中央下段の老夫婦は私の母方の祖父母で、子どもや孫が後ろに立っています(もちろん、現在、この当時の面影そのままの人はいません!)。バックは京都の梅宮大社という神社で、この写真を撮った場所から20メートルも離れていないところに、お風呂もない小さな祖父母の借家がありました。そこに毎年お正月に、この老夫婦の身近な親せきたちが集まっていたのです。

 祖父がやがてガンで亡くなり、その十数年後に祖母も息を引き取って、その小さな木造平屋の建物を明け渡すことになりました。祖母の子どもたちが遺品をそれぞれ引き取っていったのですが、確か、引き取り手がなさそうな物入れがありました。私がそれならぜひ欲しいと言って(使いたかったのです)、ちょうど一人暮らしをすることになった静岡まで、当時まだ元気だった叔父(左の写真にも写っている)の車で運んでもらいました。それ以来20年になりますが、ずっと私の傍らにあるものです。右側の写真です。

 ただ、この(右の取っ手が1つ外れた)物入れが、私の「宝物」かというと、そういうわけではないんです。ただ、母方の祖母の遺品の一つ、孫である私にとっては、祖母の形見であるというだけです。

 

 

 下の写真に写っているのは、「モノ」としてはとうに存在しなくなったものです。前に勤めていた学校を離れるとき、ちょうど10年間過ごした研究室の中身をすべて空にして、最後に事務室にご挨拶をして出て行く日になりました。その日の朝まで、研究室の扉にくっつけていた100円ショップで買ったホワイトボードの伝言板があったのですが、当時の1年生の中の一人(オープンキャンパスのお手伝いをしてくれていたメンバーの一人でした)とすでにそこを離れて久しい学年の人が二人(一人は最初のゼミ生でこの5年前に卒業した人、もう一人はちょうどその年に入学してたまたま1年次だけ私の授業を履修した他学科の学生)、こんなふうにメッセージをのこしてくれていました。3人には互いの接点はありません。不思議な気持ちで(もちろんうれしくて)写真に撮り、そして、そのままにしていたのを、このたびのコラムを書くにあたって引っ張り出したものです。約10年ぶりに。

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 私にとっては、「モノ」として宝物を挙げよと言われても、これが宝物です、と言ってご紹介できるものはとくに思い浮かびません。ある特定のものを「宝物」だと言ったとたん、じゃぁ、あとのものはどうなるの?という気持ちになりそうで、それは違うなとすぐに思ってしまいます。

 ここでご紹介した写真は、私にとって、あれこれと何かを思い出させてくれるものの、ちょっとした例です。そうやって思い出す(思い出させてくれる)事柄の中身の方が、私にとっては、ひとつひとつが、他では代えられない・・・もののような気がします。なお、ご紹介した写真のようなモノがないと思い出せないというわけではないので、結局のところ、「思い出す事柄」「思い出すということ」が、強いていえば、私にとっての宝物(たからもの)、ということになりそうです(注:良い思い出ばかりということはもちろんありません。むしろ正反対で、苦い後悔しかない思い出の方がずっとずっと多いですが、それでも)。

 

 祖母は、亡くなる2,3余り前から認知症の症状がだいぶ強くなっていて、私の母を含む3人の娘が交代で世話をし、最後は施設で息を引き取りました。でも、穏やかで優しくて本当にしっかりした(母以上に!)、戦争やら社会の変化やらのたくさんあった(と習った)大正から昭和の時代を生きた祖母でした。もしも将来私が認知症になって、大切なことを思い出せなくなったら・・・どうなんだろう。同じ人だけど、「別の(思い出をもつ)人」になるんだろうか・・・と思ったりします。

 ホワイトボードに書いてくれた3人、そしてもちろん、この人たち以外でも、これまで何かとかかわりのあった学生の人たちを、もちろん、私は忘れていないです。今こうしているときも、元気かな、と折に触れて思い出しています。だからどうっていうわけじゃないですよ。そうだというだけです。(^_^)

 

 あれあれ、思ったより、長くなったなぁ・・・。。失礼しました。

福岡 欣治