教職員コラム お題「私が学生時代に大切にしたこと」林明弘

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 表題の課題を与えられて、考えたのですが、思いつきません。特に「学生時代だから」という理由で大切にしたものはありません。でも、何も書かないわけにもいきませんから、いろいろ思ったことを綴ります。

 私は「大事なもの」と「大切なもの」は違うと思っています。

 「大事」は「小事」の反対で影響力によって判定されます。ですから政治は大事です。国民生活に大きな影響を与えますから。結婚や就職の選択も大事です。その後の人生に決定的な影響を与えますから。お金や健康は大事ですが、大切と思ったことはありません。ここに「大事」と「大切」の注意すべき関係があります。凡人なら、破産したり寝たきりになったりすることは「一大事」で、それが「大切なこと」にまで影響を与えることは多くの人は認めるでしょう。これでお分かりいただけると思いますが、「大事なこと」の判断では、多くの人の見解が一致しやすいです。その理由は、それらが幸福のための条件・手段として必要なものと認められるからです。先ほどの表現を使えば「影響の大きさ」が同意されやすいということです。古代ギリシャには「一番大事なものは健康で、気立てが良いのがその次で、さて三番目にくるものは何かといえば、ー正直に稼いだお金だ」ということわざがありました。こういうことわざがあるのは、大事なものの順番については多くの人の見解が一致していたからでしょう。

 これに対して「大切なもの」は個人によって様々で、「他人の目から見ればつまらない」ものでも、本人にとっては「命の次に大切」ということはいくらもあります。「私が学生時代に大切にしたもの」という課題が与えられるということ自体が、「大切なもの」は人それぞれ違う、という前提があることを示しています。

 「大切なもの」が、例えば「思い出」のような心の中にあるものなら、宝石のような品物と違って、安全かといえば、そうとは限りません。大切にしていた思い出を他人によって汚されるということもあります。爪にどんな絵の具を塗るか、というのも「こだわりの色」を大切にしている人なら、それが原因で他人から不快な思いをさせられることもあるでしょう。

 変な言い方に聞こえるかもしれませんが、私には「大切なもの」と「自分」との間に「大切にする仕方。その仕方の違いの背後にある大切である理由」大げさに言うと「人生に対する態度・生き方が変わる」そういう中間のものを挿みたい、という希望というか憧れというか、何かそういう願望みたいなものがあります。

 これは以前ほかのところにも「私の宝物」という題で書いたのですが、「宝物は他人の目からはガラクタに見えるものほど価値がある」という趣旨でした。

 そういう意味でも「大切なもの」は当然他人の目には「くだらない、あんなものを有り難がって」という目で見られることが多いでしょう。

 でも、考えてみてください。「大切なもの」は自分にとってだけ大切なのですから、他人にくだらないといわれたくらいで、不快になるなんておかしい気もしませんか。

 適切な例が挙げられないのですが、例えば「大切にしている靴」があるとして、靴そのものではなくて、「自分にとっての靴とは」という観点で見ると、ちゃんと履きこなせるか、場違いなところに履いていったりしないか、スカートやハンドバッグなど、ほかの物とのコーディネイトができるか、そういったことのわきまえというか、ふるまい、判断、そういうものが身についていないと、周囲の評価だけではなく「自分にとっての」という価値も下がるように思います。

 トルストイの『家庭の幸福』という作品のなかに、「この人は私を愛している。そして私にふさわしい人間になろうと努力して苦しんでいる」と感じ、自分も相手の努力に値する女になろうとする女性の心理が描かれている場面があります。こういう女性が相手の男にとっての「大切な人」だと思います。

 「自分にとって大切なもの」の価値は他人が決めるのではなく、自分ですから。その価値を決めるのは自分自身、高めるのも下げてしまうのも自分次第だと思っています。

林 明弘