川崎医療福祉大学創立30年記念誌
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6川﨑 祐宣先生再建された外科川﨑病院再建された外科川﨑病院 第二次世界大戦の終わる直前の1945(昭和20)年6月、空襲によって病院は全焼してしまいました。祐宣は、資材の乏しい中を奔走し、翌1946(昭和21)年9月には病院をみごとに再建しました。「年中無休・昼夜診療」を実行した川﨑病院には多くの患者が来院・入院しましたから、結果として、病院の収入も少なくありませんでした。しかし同時に、高額の税金を納めることにもなりました。 税金を納めることは大事なことですが、得られた収入をより有効に役立たせるため、祐宣は、病院や土地などを寄付して、財団法人を設立する決心をしました。戦後の混乱のさめやらぬ1950(昭和25)年のことでした。当時、医療に比べ、社会福祉の分野は著しく未熟で、中でも医療に裏打ちされた福祉は皆無と言ってよいほどでした。病院で様々な人たちを診てきた祐宣は、「医療によって支えられる福祉」の必要性を痛感し、診療収入をそのような活動に振り向けられるよう、自らの病院を無課税の財団法人に委ねることにしたのでした。 祐宣の構想は、さらに大きく発展していきました。それは社会福祉法人 旭川荘の設立でした。肢体不自由児や重度知的障がい児など、主に医療を必要とする障がい児(者)のための施設を建設するという意味 川崎学園は、1970(昭和45)年に設立された学校法人で、最初に誕生したのは川崎医科大学でした。その3年後の1973(昭和48)年には、川崎医科大学附属病院ならびに川崎医療短期大学が開設されました。 そして私たちの川崎医療福祉大学は、日本初の「医療福祉大学」として、1991(平成3)年に開設されました。 今日では、「医療福祉大学」といっても珍しくありませんが、当時は、多くの方々から「医療福祉って何?」ときかれたものでした。医療福祉を説明するには、川崎学園の生みの親である川﨑祐宣の思想と実践をお伝えする必要があります。 川﨑祐宣は鹿児島県の生まれで、1931(昭和6)年に岡山医科大学を卒業し、外科学教室に入りました。その後、1936(昭和11)年に岡山市立市民病院の外科医長に就任し、さらに3年後の1939(昭和14)年には、外科川﨑病院を開設しました。そこでは昼夜の別なく働き続けましたが、同時に患者さんの中には、いろいろな生活上の問題を抱える人たちが少なくないことを知りました。医療費が払えない人たちや、障がいをもちながら社会の無理解に苦しむ人たちには、可能な限りの援助を惜しみませんでした。〜日本初の医療福祉大学〜本学の成り立ち

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